管理人の人物像
ここで,その”誰にでも罹っちゃう,うつ病”に見事に罹ってしまった管理人の人物像に少し触れたいと思います.
このサイトを長く見て頂いている方や,現実世界でお付き合いのある方には,もはや何の必要もありませんが...
管理人は奈良県に兼業農家の長男として生まれました.
幼いころ,両親,特に母親の教育はじつに厳格なもので,管理人の性格は”生まれ持ったもの”というより,むしろ”親に作られたもの”であると思います.
まさに”三つ子の魂百まで”
そんな幼少を過ごした管理人は...
4歳:公立幼稚園に入園
6歳:公立小学校に入学(小学校のときは少年野球に入ってました)
12歳:公立中学校に入学(中学のときはバスケ部.当時からの友達もたくさんいます)
バスケ部でのシゴキは結構厳しく,最初36人いた同学年のメンツも最後には11人になっていました.
この厳しい練習,厳しい上下関係(暴力も当たり前)も人格形成に影響を与えたと思います.
が,それでも,ここまではホント絵に書いたような普通の人生.世の中の8割くらいは該当しそうな平凡さです.
で,ココからはすこし線路が曲がっていきます.
15歳:国立高専に入学(空手部に入部)
そう,普通の人は高専になぞ行かず普通科高校へ行くケースが多いと思います.この分岐点で若干少数派側になりました.
んで,空手部&空手道場.自分に自信ってものを初めて付けてくれたのが空手かもしれません.
それまで”自分は何をやってもダメ”って考え方でした.
学校の成績も悪くはなかったけど,両親に言わせれば”勉学は出来て当然”
多少テストの点が良いくらいではむしろ非難されるくらいだったので,学問系統での自信は全くありませんでした.
でも,空手をやって力も強くなりましたし,体もゴツくなりました.黒帯にもなりました.
少なくとも殴り合いでは両親に打ち勝てるくらいになれたことで,はじめて自分というものに価値を見出せたんだと思います.
逆にいえばそれだけ小心者だということですけど...
18歳:友人が事故で死んだ
これは自分にとって大きな大きな人生の転換点でした.
当時空手部の主将だった管理人は,同じ部かつ同学年の副主将を交通事故で失いました.
ホント何か悪い夢でもみた様な気分でした.
つい近々まで彼は確かに自分と共に部を引っ張ってくれた信頼できるパートナーであり,一緒に汗を流した仲間であり...
また良きライバルでもあった彼が,一瞬にしていなくなってしまった...
言い表せない喪失感,悲壮感でした.
でも,彼が天寿を全うせずに死んでしまったからこそ,管理人は”自分に与えられた人生分は精一杯頑張って生きよう”と思うようになりました.
20歳:大学に編入.に伴って金沢に転居
進学にあたっては両親と大変に揉めました.
両親は”進学などせずに就職せよ”とのことでしたが,
そこで”はい,そうします”と言わず,”俺はこう生きたい”と両親に向き合える自信を与えてくれたのは,やっぱり空手だったんだと思います.
そうして揉めていた両親との間に入ってくれたのは,意外にも管理人に幼いころから農家を継ぐよう言い続けた祖父母でした.
”自分たちは望むように学問が出来なかったから,その分,孫には望むようにさせてあげなさい”
祖父は若いころ進学の希望があり,またそれだけの学力もあったのですが,その父(管理人にとっての曾じいちゃん)に反対され,
進学を諦めたことが今でも悔しくて仕方がないそうです.
ともあれ,祖父母が肩を持ってくれたお陰で管理人は無事に進学することが出来ました.
迎えた金沢での一人暮らしは,今まで自分に圧力を掛け続けてきた両親との別離であり,また新しい出発でもありました.
21歳:研究室への配属
一応希望して入った研究室は結構過激なところでした.
朝は8時半に入り,夜は12時に帰宅.
その研究室が新任の先生の担当だったこともあり,いわゆる”研究の伝承”ってのが無かったので,イチから自分で研究を始めなければなりませんでした.
正直すっごく大変でした.分からない事があっても誰にも聞けない.とりあえず試してみるしかない.
でも,隣の研究室の良き先輩に恵まれ,またライバルにも恵まれたことで”研究って大変だけど,でも面白いかも?”
と,思えるようになったのがこの頃です.
22歳:大学院修士課程へ進学
研究ってちょっと面白いかも?と思い始めた頃.それを手放したくなかった自分は進学を心に決めました.
高専の先生に”大学に進学するなら大学院まで行かないと意味がない”と吹き込まれてはおりましたが,
やっぱり決定的だったのは”研究ってちょっと面白いかも?”でした.
さらに進学するとなると,今以上に両親と揉めることは目に見えてましたので,今度は進学を切り出す前に自分から布石を打っておきました.
祖父母への根回しと,大学院入試合格の事実.
さすがに両親も今度はすんなり折れてくれました.
ただし”奈良で就職する”ことを条件に...
24歳:会社に就職
自分のやってた”専門分野”と”奈良”という条件が必然的に就職先を決めてしまいました.
自分の”研究ってちょっと面白いかも?”というこだわりが無ければ,もう少し就職先の幅はあったのでしょうが.
が,ここで大学の先生が裏工作.
”管理人に博士号をとらせること”を就職先に承諾させてしまったのです!
ので,管理人は社長命令で働きながら博士課程にも進学することになりました.
拒否することは出来たんでしょうが,例の”研究って...”が,自分の進学を後押ししてしまいました.
一方で,”昔マンガの中にしか居なかった博士に自分がなれるかもしれない”という喜びもありました.
でも,その二足のわらじはちょいと管理人には重過ぎました...
睡眠時間二時間の生活.
体が持ちませんでした.
どうやら家伝らしい喘息を引き起こし,全身に蕁麻疹を呼び覚まし,体はボロクズのようになりました.
そこで迫られた選択.
博士課程か,仕事か?
26歳:博士課程一本で
仕事を続けて博士を諦めるという選択肢がありました.
両親が学費を出してくれないことは判っていました.博士課程ともなれば祖父母も援護してくれません.
普通に考えれば全うな選択と思います.
が,もう一本細い糸が見えていました.
一種奨学金を受けつつ,大学から少しだけ給料を貰いつつ,バイトをして生活費を稼ぎ,
授業料の全額免除を認めてもらっての博士課程.
授業料の全額免除ってのは結構条件が厳しく(半額ってのは割と簡単),博士課程ともなれば学校の成績でなく研究実績がモノをいいます.
管理人がツイていたのは,この前年に学会で賞を貰っていたこと.
これが効いたようで,授業料は全額免除して頂けました.
もう一つの難関.奨学金.
博士課程だと奨学金を貰える確率は(自分の時で)1/3.利子がない一種だとさらに1/3.
でもこれも学会賞の威光があったのか無事通過.
正直運に救われた博士課程でした.
博士課程では良い後輩達にも恵まれ,短期修了できる目算が立ってきました.
そこで再び立ちはだかってくるのは就職.
選択肢は...思った以上にあんまりありませんでした.
ポスドク(就職待ちの臨時研究員)をやるか,民間企業へ再就職か,運よく恒久的な研究職に就けるか...
で,運は良かった訳です.
が,これがうつ病へのスタートでした.
27歳:結婚&再就職
かねてから付き合ってた恋人と無事に結婚.
あちらのご両親は(就職先が決まってたとはいえ)よく学生結婚なんぞを許してくれたものです.
で,卒業式で答辞を読む名誉にも恵まれ,順風満帆にスタートした再就職でしたが...
と,ココまでが,この時点での管理人の人生です.
書いていて,結構運に恵まれた要素も多いことに改めて気付かされる.
続きは以後のページにて.
PS.改めて周りを見てみると管理人の周りって医療に携わる人が多いかも?
家内を含めた一族だと,医師に,看護師,理学療法士,医学博士なんてのも...
でもなぜか薬剤師はいませんね? なんでかな?